斎藤環さんによる映画評

※映画の結末に触れる記述があります。

斎藤環(精神科医)

 想田和弘監督の映画『選挙2』は、言うまでもなく観察映画第一弾の『選挙』の続編である。
 『選挙』はいわば“コロンブスの卵”的な作品だった。もちろんこれまでにも選挙を題材とした映画がなかったわけではない。ジェームズ三木『善人の条件』、森田健作『当選確実』など。しかしそれらは、金権政治批判やマスコミ批判に終始する、あえて言えば紋切り型のフィクションだった。
 想田監督はそうした声高な批判に陥らず、淡々と「選挙のある日常」の風景をリアルに切りとって見せたのだ。
 奇妙な連想かも知れないが、僕は『選挙』を観たおりに、日本の報道写真の祖と言われる名取洋之助を連想した。ドイツに留学しベルリンのウルシュタイン社の契約写真家に抜擢された名取は、欧州における日本文化への関心の高まりを受けて特派員として帰国、わずか3カ月で60テーマ、約7,000枚の写真を撮影する。『ベルリナー・イラストリールテ・ツァイツング』に掲載された「日本の宿屋」は、あえて欧米人の視点に立って日本の宿屋の特徴を記し、高く評価された。
 『選挙』『選挙2』における想田監督は、必ずしも純粋中立な観察者ではない。ニューヨークでの生活が長い想田監督の観察眼は、日本の選挙制度の奇妙さについて、私たち自身がなんとなくやり過ごしてきた違和感をありありと“思い出させて”くれる。イデオロギー的な色彩は限りなく希薄だが、そのぶん日本の選挙制度の特殊性や奇妙さがはっきりと浮き彫りになっている。
 それでは一体、何が「奇妙」なのか。
 いわゆる「ドブ板選挙」的なもの。私たちはそれをいくぶんうっとうしく迷惑なものと認識してはいるものの、それがわが国独特の「風習」かもしれない可能性についてはあまり考えてこなかった。
 氏名を大書したタスキを掛け、白手袋をはめ、駅頭では市民に頭を下げつつ自らの名前を連呼し、選挙カーで街を練り歩き、当選すれば万歳三唱でダルマに眼を入れる。こうした選挙スタイルがいかに特殊なものか。
 『選挙』『選挙2』の主人公である前川崎市議の山内和彦さんには『自民党で選挙と議員をやりました』(角川SSC新書)という著書がある。ここには上に述べたドブ板選挙の構造が、かなり詳しく記されている。
 ひとことで言えば、日本の選挙は、組織力と資金があるほうが圧倒的に有利なのだ。断っておくが、これは必ずしも「金権選挙」批判ではない。「地盤・看板・カバン(金)」の三バンが重視される、ということだ。
 後援会なしでは選挙を戦えない。言い替えるなら、この構図さえ整えば、なんの実績もない落下傘候補ですらも当選できてしまう。『選挙』撮影当時、山内さんは自民党の公認があったため、その組織力をフル活用して当選できた。
 ポスター貼りにしても選挙用ハガキの発送にしても、組織力のある候補者が圧倒的に有利だ。それは『選挙2』での山内夫妻の苦労振り(郵便局で選挙用葉書の宛名書きをぎりぎりまで続ける姿!)をみればいっそう痛感されるだろう。
 立候補と同時に、候補者の周りには選挙のプロのような人たちが現れて、上から目線で指示を出す。どの有力者に挨拶にいけ、どこそこの運動会に顔を出せ、妻のことは家内と呼べ、などなど。当選のためには個人の美意識やプライドは徹底して抑えこまれ、ひたすら群衆の前で自分の名前を連呼し、握手とビラ配り。この過程が私には、カルトや自己啓発セミナーの洗脳と同じに見えて仕方がない。
 『選挙2』の白眉は、前作にも登場する二人の保守系候補者の、撮影に対するリアクションである。最初は当たり障りのない挨拶をかわしておきながら、街頭演説シーンの撮影を開始した想田監督に対して、露骨に険悪な表情で撮影をやめろとクレームをつけはじめる。
 街頭演説は議員候補という公人の行う公的活動だ。その撮影を規制する法的根拠は何もない。マナーとして事前に一言断るべき、という意見もあろうが、もし「撮影は困る」と言われたとしても自粛する義務はない。
 直接の議論をするのならばまだいい。候補者の意向を汲んだスタッフがゆがんだ笑顔で理屈にならない理屈を並べながら「撮影ご遠慮ください」と懇願し続けるシーンを見て、僕はいたたまれない気分になった。いっそもう撮影をやめてくれ、という思いすらよぎったのだ。そう、これが選挙の「空気」というやつだ。誰もそれには逆らえない。最有力の候補者でさえも。
 ある候補者が「街頭での挨拶なんか下らない、しかたなくやってるんだ」と発言するのはわかる。しかし、このシーンを見て僕は改めて確信した。保守系の候補者こそ、この選挙スタイルを深く恥じているのだ。「人様にはお見せできない姿」という思いがなければ、あそこまで撮影を嫌悪する理由がない。
 あらゆる選挙運動の風習を否定し、ポスターと葉書、防護服コスプレの街頭演説というスタイルで戦った山内さんは選挙には敗れた。ドブ板という“洗脳”を脱ぎ捨て、脱原発という理念を訴え続けた山内さんの戦いは、果たして失敗だったのだろうか? 
 僕にはそうは思えない。『選挙』と『選挙2』の強烈なコントラストは、僕たちの中に潜在する“選挙という風習”への違和感を否応なくあぶり出す。透徹した現状認識が、しばしば「予言」に似てしまうという事実を付け加えるなら、蛇足が過ぎるだろうか。予言の成就を祈りつつ、まずはこの違和感を行動に移すことからはじめてみよう。

斎藤環(さいとう・たまき)

1961年生まれ。医学博士。精神科医・評論家。爽風会佐々木病院診療部長。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析。「ひきこもり」問題の治療・支援活動を行う他、言論活動も行う。著書多数。近著に『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店)。